ミドリにはプロとしてのプライドがあった。人前でマイクを持ってしゃべることに慣れていたし、適度なリラックスとミスをしない緊張感を、心の中にバランス良く共存させることだってできる。
もちろんアオイに勝ったという自負もあった。この数日は今までにないほどの開放感を味わい、ようやく自分だけの人生がスタートするのだという喜びに震えていた。
それに、これからは化粧品を選ぶときに気を使わなくていい。針でチクチク突いていたアオイ人形は捨てたし、バックに知らないうちにゴムの虫を入れられることもないし……
と、そこまでバカみたいに喜んでいたから、バチが当たったのだろうか。
司会進行のために用意しておいたノートが、いつの間にか無くなっていた。
進行の台本には、タイムテーブルと式次第が書かれているだけ。だからノートには、打ち合わせでメモしたアイサツや段取りなどをメモしておいた。朝、家を出るときに持っていたはずだし、リハーサルのときは、確かに手に持っていた。壇上の司会用テーブルの上に置いておいたノートを、誰かが持ち去ったのだろうか。
焦りで目が泳ぐ。手が汗でベトベトする。つま先が落ち着かず、立っている感覚が薄くなっていく。にわかに会場がざわめきはじめる。
ふと舞台袖を見ると、アオイがミドリを見ていた。
また、やられたのか!
最初、ミドリはそう思った。しかしそうではないらしい。
その時、アオイはミドリがどんなミスをしたのか、すぐに理解した。
一瞬、いい気味だと思った。最後の最後で自分は勝ったのかと思った。
しかし視線があった瞬間のミドリの表情の裏にあったものが、何を忘れたのかも思い出せないアオイの記憶をこじ開けた。
その記憶がアオイを動かす。
溜めてきた知恵を巡らせ、注意深く周囲から武器を探り当て、反射的に行動する。
「ねぇっ! そのヘッドマイク貸して! 急いでっ!」
アオイは隣にいるディレクターに声をかけた。
「はぁ? 今、本番中でしょ? いいからそこをどい……」
説明するのも面倒だ。アオイはディレクターの鼻頭に握り拳をたたき込んだ。そして倒れたディレクターの頭からヘッドマイクを奪い取り、音声が会場に届くようにボタンを操作した。
ミドリは目の端で、騒々しい舞台袖を意識した。そこにはいつか見たことがある表情のアオイがいた。そういえばアオイは小さいころから目つきが鋭く、仕草も大きく、少し乱暴で、周囲の男の子たちを震え上がらせていた。
その記憶に動かされて、ミドリは何をするべきかを把握する。
そして適当に口を動かして、千人の大物たちの前で司会者の演技をする。完成された物腰と自信には一片のスキもない。
アオイはその口を読みとり、知的なやわらかい声でセレモニーの進行を告げる。頭の中には今日の進行と必要事項、的確な言葉が詰め込まれている。
アオイがしゃべって、ミドリが口を動かす。どんなに見事な腹話術でも、ここまで違和感なく、口と言葉がシンクロすることはないだろう。
完璧すぎるリップシンクロは、セレモニーを台無しにするどころか、優れた司会技術がもたらす荘厳さを生みだし、慎ましやかな雰囲気で会場を包み込んだ。
小さい頃、アオイとミドリは迷子になった。夕暮れのオレンジ色が、全ての道が家と反対に届くように、街に魔法をかけたのだろう。ふたりは怖くて寒くて空腹でさみしくて心細くて悲しくて、止まっては歩き、しゃがみ込んでは涙をこらえ、夕闇の魔女と闘った。
しかし、ようやくオトナに発見されたとき、ふたりは迷子になった原因を相手のせいにした。そこから全てが始まった。
その時、ミドリの手を引いていたのがアオイである。
手を引いたアオイはミドリが頼りにならないことを怒っていた。
ミドリはアオイに任せたのに迷子になってしまったことを恨んでいた。
本当はふたりとも、同じ道を歩いていないと、手を握り合っていないと、不安で仕方がなかったくせに。
だけど、ふたりはすでに美しく聡明なオトナの女性に成長した。
もういつ迷子になっても、それぞれの道を歩いていける。
そしてセレモニーは盛況のまま無事に終了した。
ステージの上ではアオイとミドリが言葉も交わさずにらみあっている。それぞれ反対側の舞台袖に用事があったからである。
ふたりは別々の仕事のために慌ただしく舞台をあとにする。もう見慣れた風景だから、誰もふたりの変化に気が付かないし、その変化はふたりにしか分からないのかもしれない。
しかし生まれて初めて別々の方法を選び勝利を勝ち取ったふたりは、すれ違いざまに盛大なハイタッチの音を、撤収作業で忙しいセレモニー会場に響かせた。
空中に走った電撃は、それまでと違う色をしていた。