ケイちゃんマナちゃんPresents ケイコとマナブ.net オリジナル連載小説
「ゴーストオーケストラ」 Vol.2
07/12 更新
作:鋳一雰士
イラスト:shiz
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習ホールの扉のそばに、室温計が取り付けられていた。
血の色をしたしずくは細長く上に伸び、この部屋が21度であることを示している。
しかし尾見は、それを信じられない。
真冬の雪の中でも、この室温よりあたたかいはずだ。

温計から目をそらし、オーケストラのメンバーに顔を向けると、彼らは尾見に視線を集中させていた。
誰の身体も脈拍ほども動くことなく、呼吸が空気に混じる音さえ聞こえてこなかった。
「おまたせしました。はじめましょう」
尾見がそう告げると、彼らは唇を笑顔に似た形にした。
なぜか真夜中に出会う猫の集団を思い出した。
気味が悪かった。

見が最後の仕事と決めた市民オーケストラのメンバーは、普通の素人の集まりと思えないほど、すばらしい演奏技術を持っていた。
よほど練習しているか、なんらかの事情でプロの道からはずれた人たちなのだろうと、尾見は考えていた。
彼らがそれだけの演奏技術を持っていたことも、尾見がこのオーケストラを最後の仕事にしようと決めた理由だった。

来、尾見はすでに仕事を断っていた。
最後にして唯一の身寄りだった妻が死んでからというもの、あらゆる欲が無くなっていたからだ。
食べること、歩くこと、笑うこと、そしてもちろん音楽に関わることも面倒に感じられた。
それらの欲が無くなったのは、孤独と失意のせいかもしれないし、もうろくが原因かもしれない。
しかし原因が分かったところで、それをどうにかする理由もない。

んなある日、尾見の家に黒い封書が届いた。
封書は不思議な材質でできていて、指でなぞると人間の髪や肌の触感を連想させた。
封書はネットリとした赤いロウで封じられていて、高級さを感じさせる。

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ぜか封を開けると、尾見がいる部屋から「音」が消えた。
どこかで動いているはずの機械の音も、外で空気が揺れる気配も、なぜか消えてしまった。
まるで尾見がいる場所が、世界から切り離されて真空パッケージされてしまったようだ。
振り返ってみれば、おかしなことは、この時から始まっていたのだ。

にはていねいな言葉で、指揮の依頼がまとめられていた。
読み終えて書面を封書に戻すと、また音が戻ってきた。
空の高いところをヘリコプターが横切り、世間がヒマではないことを思い出させてくれた。

見はその時に現われた静寂の世界に、恐ろしさだけではなく心地よさも感じていた。
その音のない空間が「安らかなる何か」に通じていたからだろう。
孤独な老指揮者は引き出しに閉じこめていた指揮棒を取り出して、もう一度封筒を開けて「あの世」を作り、絶対的な沈黙の中で指揮棒を振ってみた。

して尾見は、この仕事を最後にしようと心に決めた。
身寄りもなく欲もなく、あとは消える以外に用事のない自分にとって、これ以上ふさわしい仕事はないと思ったからだ。
また尾見には、この仕事に対する強いイメージが湧いていた。
もしかしたら依頼の演奏が終わった瞬間に、例えばテレビの電源をプツンと落としたときのように、自分が消えてしまうかもしれないというイメージである。

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