普通の人だったら指揮者の台に乗っただけで、危険を感じていただろう。
その危険はケガをしてしまう予感でもなければ、人から責められたりお金を失ったりするような生活への不安でもない。
それは足がたくさんある虫を見たときや、放送時間が終了したテレビのカラーバーを見つけたときのような。
もしくは合わせ鏡の顔がひとつだけ笑うような、自分の裸の背中にチャックを見つけるような。
この世界に自分が知らないスキマがあることへの恐怖である。
ステージの上にいない楽器が鳴るのも、精気を感じさせない演奏者たちも、耳のすぐそばで誰かがささやいているような気配も、全ていつも通りだ。
もちろん指揮者台に上がった尾見も、同じようにその危険を感じていた。
感受性が必要になる仕事をする尾見だからこそ、人よりずっと強く反応できていた。
オカルティックな現象が日を追うごとに増えている上に、そろそろ練習の回数は10回を超える。
尾見が少しくらいおかしくなったとしても当たり前のことだ。
コンサート当日が近くなるにつれ、尾見は自分を見失っていった。
目覚めてすぐ洗面台に立つと、鏡に笑っている自分の顔が映った。
何か楽しいことがあったわけでもなく、目はうつろなまま。
つまりオーケストラのメンバーと同じ表情をしていた。
息が白くなるほど寒い練習ホールでも、うす着で平気になっていた。
道をすれ違った人は、尾見をおびえた目で見るか、あわてて道をゆずった。
そういえば、ここしばらく食事をした記憶がない。
現実感が欲しくてウデをつねってみると痛みを感じられず、自分で皮膚をちぎりそうになったが、ちぎれてしまう直前でそれが夢だと気が付いた。
そのことを思い出して、鏡の中の自分に死んだ目で笑いかけた。
するとオーケストラのメンバーと話ができるようになった。
あいさつ程度のコミュニケーションがほとんどだったが、ヴァイオリンを担当するやせ細った男だけは、尾見との会話に積極的だった。
彼は黒い服を好む、骨張った体型の男だった。
会話の内容のほとんどは音楽の話。特にコンサートで演奏する曲に関する話題が中心。
最初の曲は「鎮魂歌」がよい。
「地下墓地にて」は第二楽章をピックアップしたい。
「死神」は、今よりも深く静かに。
コンサートで演奏される曲は、ゆううつなタイトルばかり。
暗い雰囲気ばかりの選曲にも、すでに尾見は疑問を感じない。
音楽の話題の合間に、ヴァイオリン奏者は気味の悪いことばかりささやいた。
その言葉を尾見はウツロに聞いていた。
「コンサートがうまくいけば、あなたには相応のポストが用意してある」
「当日は私の上司も来るので失敗しないでいただきたい」
「あなたのように高名で、しかも命の匂いが薄い指揮者を探していた」
何のことだか、尾見には分からなかった。
にごった意識のまま数日が過ぎ、ハッと気が付いてみると、尾見は舞台袖に立っていた。
コンサートホールは単なる市民オーケストラが主催しているとは思えないほど立派だった。
席は全て埋まっていた。
しかし聴衆の表情には、例の笑顔が浮かんでいた。
全ての客が、全く同じ表情をしていた。
尾見は
「やっと終わるのか」
とつぶやいて、ステージに足を運ぶ。