ここしばらく亡霊のように過ごしてきた尾見だったが、長年の習慣も手伝ってか、ステージに出た途端に背筋がシャンと伸びた。
客席に向かい、おじぎをするために全体を見回したが、やはりどこからも命の匂いを感じられない。
普通なら、演奏前に咳払いを済ませておく人や、楽な体勢に座り直す人など、じわじわとした動きが見えるものだ。
今日の客には、そういった意志や意図や感情、きっと魂と呼ばれている何かが欠落している。
それでも尾見にとって聴衆であることに代わりはない。
ゆっくりと身体を曲げ、愛すべき演奏者たちに顔を見せる。
細くて小さな指揮棒にしたがって、音楽が生み出される。
演奏はいつも通り。
陰湿なタイトルが付けられた、救いのないメロディーがホールを満たしていく。
ステージの上にいない楽器が鳴るのも、精気を感じさせない演奏者たちも、耳のすぐそばで誰かがささやいているような気配も、全ていつも通りだ。
しかし尾見は、これまでの練習で感じたことのない充実に心を満たされていた。
自分の心の中に、音楽と同時に熱が生まれていることも感じていた。
この演奏が最後だからというわけでも、聴衆の前で演奏しているからというわけでもない。
尾見は指揮棒の先端に神経を集中させながら、その理由を考えてみた。
やはり自分の目の前にいる演奏者たちは、ごく普通の生活をする市民ではなく、すでに死んだ人たちなのだろう。
例えばこのクラリネットは、大学生のころに知り合って親友になったアイツと全く同じ音色だ。
彼は去年死んでしまったはずなのに。
そうそう。チェロは最初に楽器の演奏を教えてくれた、となりに住んでいたおじいちゃんの音。よくおいしいお茶をごちそうになったっけ。
このホルンの音を出すのは、よくケンカをしていた、あの教え子しかいない。ヨーロッパで事故を起こしたと聞いて、あわてて飛行機に飛び乗ったな。
それにこのフルート。ぼくはこの音色をきっかけに、妻に恋をした。
尾見は気が付くと泣いていた。
気が付いたら演奏は終わっていて、満場の客はあとかたもなく、どこかに消えてしまっていた。
今となっては、あの客たちが普通にトビラを通って会場をあとにしたのかどうかも分からない。
演奏者たちも消えていた。
ありがとうと伝えたり、お疲れさまといって手を握ったりしたかった。
きっとそれは、あっちの世界で禁じられていることなのだろうと尾見は考えた。
ふと背後の方向、客席側からポツンとした拍手が聞こえた。
拍手は黒い服を着たヴァイオリン奏者が鳴らしていた。
「ブラボー。すばらしい演奏でした」
しらじらしく手を鳴らす彼に、尾見は思いきって聞いてみた。
「あなたたちは、つまり私を迎えに来てくれたのではないですか?」
もう会えない彼らとの演奏は楽しかった。
できたら一緒に連れて行って欲しかった。
「しかし、私の率直な感想を申し上げますと、あなたの指揮はまだまだ熟練の途上といったところ。もう少しこちらで研鑽を積まれる方がよろしいかと……」
ヴァイオリン奏者はそう言い残し、黒いケムリのように消えてしまった。
尾見はひとり、指揮棒をケースにしまい会場を出た。
会場の外では太陽が地面を焦がし、汗まみれの子供たちがはしゃいでいた。
尾見は指揮棒が入ったケースをしっかりと抱えなおし、自分の家への一歩を踏み出した。